昭和41年04月01日 朝の御理解



 今朝方から、こんなお夢を頂いた。二階で子供達を集めて、うちの子供達を集めて大きいのから順々に、走る稽古をさせておるお夢を頂きました。だから大きいのから順々に、大きいのは、二階がこうぐるっとこう回れるようになっていて、ここの二階も回れる様になっているけども、一部こう瓦の上を走って行かなん感じなんですね。それで一番大きいのは出発点はここ、小かつに従って先の方にこう並ばせているところです、そして走る稽古をさせようとこうしている。
 そして私がふと思ったことは、ちょっと二階でさせよったら瓦を踏み割ってしまおうと、だから下に降りてからしようと、言いよるところで目が覚めた。そして私が思うのですね、信心の稽古をさせて頂くという事は、なるほど大きいのから小さいの、信心の程度の低いの高いのね、信心はそれこそ銘々でありますから、まちまちでございますから同じ所からスタートしたのでは、やはり興がない。
 一人の人は早く走っていく一人の人はボトボト行きよったんでは、それでは信心の稽古の面白味がないから、やはり大きい人小さい人中間の人という風に、スタートの所は変えて、そしてヨーイドンで、そこから走る稽古をさせてもらうと、小まかつに至るまで走れるという事になるわけですね。お互いが信心の稽古をさせて頂いておるという事が、実意丁寧神信心いうことが言われておりますが、その実意丁寧神信心というのは、自分というものが高くとまって、それから信心の稽古をしよる。
 自分はこの位出来とるといって、そこから稽古した分では、もう信心にはならない。それこそ瓦踏み割るという事になるという事ですね。やっぱりあの一番最初の所に降りてこなくてはならない。実意丁寧神信心。実意丁寧というのは、本当に自分というものをほんとに分からせてもらう時に、実意丁寧にならざるをえないのであり、そこからそこを起点としての信心の稽古でなくてはならぬという事。
 自分が少し分かっているからと言うて、程度の低い人に自分の思いを、自分の考えている事を、そのまま行じさせようとしても、それは無理だという事。自分というものが一番お道の信心の稽古をするということ。お道の信心の稽古をするというたらいいでしょうね。おかげを受けるという事は、又別ですけども、信心の稽古をさせて頂くという事はです、自分というものが一番より、実意丁寧な姿勢をもって、神信心ならなければならないということです。
 それは例えば家族なら家族、一同なら一同、同志なら同志。一緒に信心の稽古をさせて頂くでもやっぱり皆がそれぞれの信心を、まちまちですから、そこんところの考慮も必要だという事。ここから走る人もありゃあ、ここから走る人もあるという様な、私は心配りというものが大事だという事。同時にそれを高くとまった所から、高くとまっての信心だと、やっぱ瓦を踏み割るような事までなりかねないという事。
 やはり信心の稽古というのは下に降りて、いわゆる大地にしっかり根を降ろした様な信心とても言うか、実意丁寧神信心とは、いよいよ自分というものを本気で分からして頂いて、そこから一緒に、信心の稽古をさせて頂こうと、いうものでなからなければならんな、言った様な事を思ったのですけど、どうでしょうかね。皆さん信心の稽古をなさっておって途中から、今日はこの辺からという事はないですよ。ね、
 御理解を頂いて、大変高度な御教えを頂きますからといって、そんなら、この辺から信心の稽古をしたんじゃあ、もう下は地につかないもになる。信心の稽古というものが、どの様な高度な信心の稽古をさせて頂くでもです、結局は下に降りて、いわゆる、実意丁寧神信心の姿勢をもって信心の、その教えに取り組まなければならないという事です。
   どうぞおかげを頂かねばなりません。